記事一覧

聖霊によらなければ見えないキリスト

亨進様の3月6日付け説教の要旨が記載された
リチャード・A・パンサー会長のメールが3月8日に届いた。
「天国は完全な人が集まってつくるところではない。
不完全な人々が、問題や論争を隠すことなく、
正直に向き合って解決しながらつくっていくのだ。」
という内容は、
既に日本語訳が公開されているので、
読まれた方も多いにちがいない。
遥か彼方に見ていた天国建設の道筋が
現実に示されるようで、嬉しかった。


これとは別に、もう一つ私の目に留まったのは、
じつはメールの冒頭に記されてあった聖句
「コリント人への第Ⅰの手紙2章8~9節」である。
原理講論204頁
(メシヤの降臨とその再臨の目的)

にも出てくるこの聖句は、
当時、最高の知識人であり
預言者として知られた洗礼ヨハネが、
「イエスが主(キリスト)である」という
「隠された奥義としての神の知恵」
(同手紙2章7節)

を悟ることができなかったために
「イエスを十字架につけてしまった、
と嘆いている事実があった」
ことを裏付けるものである。

「この世の支配者たちのうちで、
この知恵を知っていた者は誰もいなかった。
もし知っていたなら、
栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。」
(8節)。

―ここに言う「知恵」とは、
イエスを「栄光の主(救い主)」と
理解する知恵であるが、
続いて9節で、それは
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、
人の心に思いもしなかったもの」
と言い、
それらを
「神は、ご自分を愛する者たちに
(与えるために)準備しておかれた」

というのだ。
ここに神の妙(みょう=深淵な道理)がある。


ところで、
「イエスは主(キリスト)である。」というのは、
今でこそ既成の事実として
誰もが認めることであろうが、
2000年以前において、
それを言うのは限られたごく一部の人々であった。
今また
「文鮮明師は再臨のイエス・キリストである」と、
我らサンクチュアリアンは言うが、
世界はまだ、
その真実・「隠された奥義としての神の知恵」
を悟るに至っていない。

何故だろうか?
不思議なのは、一旦は
「彼はメシヤである」と認めたであろう
家庭詐欺連合の人々が、
いつの間にかキリスト「お父様」を
見失ってしまったことである。

殻と実、山羊と羊とを分けたものは、
一体なんであったのだろうか?
聖書は、これに対する答えとして、
次の言葉を提示する。
「聖霊によらなければ、
だれも『イエスは主である』と言うことができない。」
(コリント第一の手紙12章3節)
と。
―そうなのだ!
「聖霊」を受けなければ見えないのだ!。
「聖霊(神の霊)」の働き・力によってのみ
「隠された奥義としての神の知恵」
すなわち「イエスは主である」、
「文鮮明師は再臨のキリストである」
との真理を悟ることができるのだ!
「この知恵」を得るに、
この世の知識や学力、能力などは一切関係ない。
神の目から見て、
その御こころに叶う人々・「神が愛する者たち」のみが
これを受ける(悟る)、と聖書は言う。

それらを分ける神の選抜条件が何であるのか、
もちろん人の目には隠されているものの、
一つだけ言えるとすれば、
「Kタイプ」の人々のうち
「磐石の水」を飲んでいる人
―「御言訓読生活」を
している人々であるにちがいない。


日本国は九州の真ん中・阿蘇山の西南麓に
安永家庭教会寺中聖殿(サンクチュアリ教会)がある。
徹底した訓読生活を通して
お年寄りを含む兄弟姉妹たちが
聖霊の役事を受け、
「キリスト」なる「お父様」を認め、迎えて、
その大いなる恩みに与(あずか)っているのを
目撃するにつけ、わたしはここに、
神の国がいかにしてつくられるか、
その道筋をはっきりと確認することができる。
罪や問題を隠すことなく、隠れることなく、
キリスト「お父様」と顔と顔とを合わせるように、
正直に向き合うサンクチュアリアンの姿である。



―島原訓読家庭教会・宮本記―
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント