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『イエス様の生涯と愛』 文鮮明先生
P.91~P.108



第三章 イエス様の三十年の準備時代

一、イエス様の家庭事情

正しく知ってイエス様を信じるべき

 聖書を見れば、イエス様の生涯の記録は三年の公生涯から始まります。その前に、イエス様の誕生についてとか、十二歳にエルサレムに行ってきたという若干の記録はありますが、それは問題にもならないほどです。
 それよりも三十歳になるまでの間、何をしたのか、家では和やかに育ったのか、両親は愛してくれたのか、兄弟の仲が良かったのか、遠い親戚までイエス様を尊敬したかなどの内容は、一つも分からないのです。そのような内容は、聖書に記録されておらず、ぷっつりと切れてしまっています。
 なぜこのような話をするのかというと、歴史は正しく明らかにされなければならないからです。自分の両親が国の逆賊ならば、逆賊であると明らかにしなければならないのです。
 キリスト教の中心であられる、イエス様について知らなければなりません。その方の歴史について論じようとするのではなく、ただその背後がどのようなものだったのかについて調べようとするだけです。背後が正しくなっているのか、それとも誤っているのかという過去の歴史を知ってこそ、今歩んでいる方向が正しい方向に進んでいるのか、正しい結果として決定されるのかを推し量ることができるので、このような話をするのです。
 イエス様の三十年の生涯路程は、ほとんど聖書に記録されていません。聖書の四福音書とか使徒行伝を見ると、イエス様の死後、使徒たちが記録した三年の公生涯路程だけが記されています。
 ですからイエス様が、三年路程でペテロやヤコブなど使徒たちを連れて回る所で、いつも親戚に会うこともでき、すべての事実がみな分かる地域であるにもかかわらず、どうしてヨセフの家庭の一族は、一人もイエス様のあとに従わなかったかというのです。いとこやまたいとこ、母方のいとこたちがいたはずなのに、誰もイエス様がどのような人なのか分からなかったのです。その原因はどこにあったのでしょうか。
 もしある家に長男がいるとすれば、その長男が継子だとしても、彼が家を出て三年間ある志を抱いて新しい仕事をするからといって、多くの人々が関心をもって彼について回るのに、それを見る親戚の人たちが、そこに一人も加われないのかというのです。
 反対に悪いことでもするならともかく、多くの人たちから驚くべき推戴を受け、またその背後に現れた奇跡とか、歴史になかった驚くべきことをして回るイエス様であるにもかかわらず、親戚がそれほどまでに厚かましく知らないふりができるでしょうか。イエス様にも友達がいたはずです。手助けをしてくれる兄弟や友達が一人でもいて、家庭を中心として妹やおばなど、真心からイエス様のことを心配しながら泣きわめいたりする人が一人でもいたでしょうか。そのようなことがすべて謎なのです。

イエスを愛せなかったマリヤ

 マリヤが本当の意味で、この地上のいかなるサタン世界の母親よりも、イエス様を愛さずして愛の道を訪ねていくようになれば、天理の法度から外れるのです。マリヤは、イエス様のために選ばれた女性です。したがってマリヤは、イエス様の母としてイエス様を懐妊して出産すれば、誰よりもイエス様を愛さなければならないのです。
 愛する際には、この世のいかなる母親よりも高い立場で愛さなければならないのです。自分の命を捧げ、自分が引き裂かれて死ぬことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。死と引き換えるようなことがあっても、愛を守るために行かなければならないのです。
 ヨセフが曖昧であるならば、足でけっ飛ばしてでもイエス様のために大げんかをして、足が折れて頭が切れるようなことがあっても、イエス様を愛することに夢中にならなければならないのです。
それにもかかわらず、ヨセフと暮らすのですか。イエス様を愛したという立場で育て、愛する年ごろになれば、妻をめとらせて愛し得る立場まで送り出さなければならないのです。
 イエス様は、幼い時から母の愛を受け、「私の母は、天上天下に二人とない母です。たった一人しかいない母です。神様、この母は愛さずにはいられない私の母ですので、あなたの国に私の母として入籍してください」と言うべきなのです。イエス様が決定してこそ、マリヤも天国に入籍できるのです。ところが、入籍できないマリヤをカトリックでは聖母と呼んでいるのです。何が聖母でしょうか。天の国に入籍できなかったのです。
 それを考えると、母親はイエス様のことを愛したでしょうか。夫も知らない、誰も知らないという立場でイエス様だけを愛することに夢中にならなければならないのです。世界史にない母として外的な環境がどうであれ、イエス様の前に愛を注ぎ、イエス様のために一生の精誠をすべて捧げて息子を愛する母にならなければなりませんでした。一等の母にならなければならなかったのです。マリヤはそうだったでしょうか。それができなかったので、イエス様から「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ 二・4)という言葉を言われても当然なのです。全く当然のことなのです。
 イエス様が少し物心のつくぐらいのころ、兄弟たちが生まれて育つ中で、弟たちがイエス様を冷遇したのです。よくよく見ると、イエス様は継子であり、その兄弟たちは実の息子なのです。ですからマリヤとヨセフの間に、イエス様ゆえにいつもトラブルが起きたのです。
 非嫡出子として生まれたイエス様は、あきれたのではないでしょうか。彼らとけんかすると、弟たちはいつも誰の所に行くかといえば、お母さんの所に行くのではなく、お父さんの所に行って、お兄さんがどうのこうのと言うので、もとから心が安らかではなかった立場にいたヨセフが、いい言葉を言ったでしょうか。
 すべて災いのもとになったのです。ヨセフもそうであり、弟たちもそうであり、その環境というものはあきれたものです。義父のもとに入ればそのようになるのです。ですからイエス様は、父の愛を受けたことがありますか。弟たちの愛を受けたことがありますか。愛を受けていたなら、なぜ家を出たのでしょうか。家を出る必要がないのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど十二弟子が必要でしょうか。自分の親戚を中心として引っ張っていけばよいのです。ところがそのようにできなかったので、ヨセフの一族は滅びていったのです。彼らがイエス様を擁護し、イエス様を中心として進んでいたならば、イスラエルの国が滅びるはずはなく、ユダヤ教が滅びるはずはありません。

イエス様とマリヤの立場

神様を中心とした三位一体(神様、アダム、エバ)が崩れたので、これを再び探し立てなければなりません。それでアダムの代わりとして立てられた存在が、イエス様です。アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるために、イエス様が来られたのです。このような内容も知らずに、イエス様が神様だというのですか。神様が神様に祈りますか。「アバ、父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 二六・39)と祈ることができるでしょうか。
 神様は二人でしょうか。それならば、イエス様が十字架に釘打たれて亡くなるとき、神様御自身が十字架を負われたのではないですか。このような矛盾だらけのでたらめな内容を信じると言っているのですから、現在の知性人たちから追われるしかないのです。
 本来人間が堕落しなかったら、誰が父になるのでしょうか。神様です。神様が父になるのです。ところが、今は誰が父になっていますか。サタンです。堕落することによって、サタンが父になったのです。したがって、すべて神様の子女に復帰しなければならないのです。サタンを中心として展開していくこの世は、すべて神様のみ旨とは一致しない怨讐の世界なので、これをすべてひっくり返して、本来の姿を備えた息子、娘を中心として、本然の国家と世界をつくらなければなりません。そのためにイエス様が来られたのです。それなのに、イエス様が死んでよいのでしょうか。
 ではイエス様は、この地上に来られて、どのように蕩減復帰すべきでしょうか。蕩減復帰の原則から探ってみると、初めにサタンがエバを引き込み、その次にアダムを引き込みました。これを蕩減復帰するためには、どうすべきでしょうか。エバを奪われたので、奪われたエバを元に取り戻さなければならないのです。ところが、天地創造の原則により、アダムを見本としてエバを造られたので、蕩減復帰をしようとするならば、アダムの創造のような役事がなければならないのです。その方が、四千年間準備した基盤の上に送られたイエス様です。
 イエス様は、アダムが失ったものを復帰するために再想像された、堕落していない第二次アダムなのです。コリント人への第一の手紙第十五章45節に、「最初の人アダムは生きたものとなった……しかし最後のアダムは命を与える霊となった」と記録されています。
 では第二のアダムとは、何でしょうか。堕落していない父母です。このような点から見ると、マリヤはエバの代わりの立場なのです。ですからエバがアダムを殺したので、それを蕩減復帰するためには、エバの立場に立ったマリヤがアダムの代わりであるイエス様を再び生まなければならないのです。
 ではヨセフは、何の立場でしょうか。天使長の立場です。エデンの園において、天使長は神様を中心としてアダムとエバに侍ってあがめるべき立場にあったので、天使長の立場に立ったヨセフは、神様を中心として蕩減復帰の原則によって、イエス様とマリヤに侍って敬わなければならないのです。蕩減復帰の原則がそうなっているのです。
 それならば、マリヤとヨセフは一緒に暮らすべきでしょうか、一緒に暮らしてはいけないでしょうか。本来は一緒に暮らしてはいけないのです。

イエス様の事情

 イエス様は家を出て一人で歩き回ったので、どんなにあきれたことでしょう。神様が四千年かけて準備したその国は、どこへ行ったのでしょうか。それでも四千年の間、国を建てたのは、その基台の上にイエス様を送り、イエス様を中心として世界を救うために神様が準備されたのです。それにもかかわらずその国が排斥し、四千年間準備したこのユダヤ教が排斥したのです。
 ヨセフの家庭を中心として、信頼の焦点(中心)として知ってついてきてくれることを望んだのですが、排斥するのですからどうしますか。ですからイエス様はあきれるでしょうか、あきれないでしょうか。彼らが歓迎しない立場に立ったので、どうなったでしょうか。国に期待しても希望が途切れ、教会に期待しても希望が途切れ、親戚に期待しても希望が途切れて、行こうとしても行けないようにすべてふさがってしまったので、仕方なく土窟を訪ねていき、貧民窟を訪ねていかなければならない身の上になったのです。ですからあきれたでしょうか、あきれなかったでしょうか。
 イエス様が家を出て一人で歩き回るので、どれほどおなかがすいたでしょうか。そのような自分自身に対して、どれほどあきれたでしょうか。その上に家を出てきたので、再び帰ることもできない立場でした。聖書にイエス様が家に入って、兄弟たちと楽しく話をして、自分の行った奇跡を自慢したという内容がありますか。そのような内容がどこにありますか。
 三年間ぼろを着て歩き回りながら、自分の親戚を抱き締めて話したことがあるかというのです。故郷の山河を訪ねていき、三十年の生涯に自分を育ててくれ、愛情をかけてくれたその母と夜を明かして話をした時があったでしょうか。イエス様が来たといって、ある日、母が餅を作り、祝宴を開いてイエス様を歓迎したという内容が、聖書にあるでしょうか。本当にあきれてしまうのです。
 イエス様は家を出たので、おなかもすき、物悲しかったことでしょう。そのとき、近い親戚の家で婚姻の祝宴が開かれるからと、そこへ行くことになったのですが、そこはガリラヤのカナの婚姻の祝宴をする家でした。その家は母マリヤのとても近い親戚の家だったのですが、イエス様はおなかもすいていたので、御飯も食べお餅も食べようとして行ったのです。そこで、ぶどう酒を作る奇跡を起こしました。
 そのときマリヤは、台所に酒がなくなったことを知って、イエス様にぶどう酒がないと言いました。ところがマリヤは、イエス様のことが好きで、神様の息子で能力が長けているので、ぶどう酒を作ってくれるものと思って頼んだと思いますか。マリヤがイエス様のことを、能力に長けた神様の立派な息子、能力を自由自在に発揮できる聖なるイエス様と思って、ぶどう酒がないと言ったと思いますか。哀れにも、もらって食べようとやって来て、それを期待して待っているような姿に見えたので、期待をするなという意味でそのようなことを言ったのです。そのようにも言えるでしょう?よくも解釈できれば、悪くも解釈できるのです。
 当時イエス様はおなかがすいていたでしょうか、すいていなかったでしょうか。誰か付き従いながら食事を出してくれた人がいたでしょうか。恵みを受けようという人たちはたくさんいて、イエス様を利用しようとする人たちはたくさんいました。しかし、暑ければ暑くはないか、寒ければ寒くはないか、おなかがすけばおなかがすいていないか、困難であれば困難ではないかと、先を争って進みながら、むちで打たれるとしても自分が打たれ、困難があったとしてもその困難を自分がかぶり、イエス様の悲運を代わりに担当しようという人が一人でもいたのでしょうか。

イエス様の内的三十年の準備期間

イエス様が三十年の間、準備したものとは何でしょうか。今まで神様が摂理した内的世界においてもつれた曲折をすべて解き、これを外的な世界にそのまま横的に展開させて蕩減復帰するための準備期間でした。三十年の準備期間は内的であり、三年の公生涯路程は外的期間です。三十三年の期間を通して完全なアダム復帰、個体完成を完結させるために戦ってきたということを知らなければなりません。
 メシヤとして生まれたその日から、メシヤの振る舞いをするのではなく、先祖たちが誤っていたら、誤ったすべてを完全にサタンの前に蕩減して、分別された勝利的基盤を築いた土台の上で、メシヤとして出発ができるのです。この地上にそのような出発ができる土台があったならば、イエス様は苦難の道を行く必要がないのです。
 もし東方の博士、あるいは羊飼いなどが、イエス様が準備時代として内的な闘争をする三十年の準備期間に、イエス様の垣根となって外的な闘争の基盤を築き上げていたら、イエス様は外的三年の公生涯路程で、内的なそのすべての天的な恨を地上に横的に展開させて蕩減するに当たり、苦難の道、迫害の道、苦労の道を行かなくても土台を築くことができたでしょう。
 また築かれたその土台を中心として、これを動かしていって苦難に遭ったとしても、これを基盤として、彼らと連絡できる洗礼ヨハネを中心とした人たちが責任を果たしていたならば、イエス様は外的な苦難にぶつからなくても、み旨を成し遂げることができたでしょう。しかし、このような土台がすべて崩れていくことによって、イエス様は東方の博士や羊飼いたちが追求していた人間の代表としての使命を再び収拾して、洗礼ヨハネを立て、それまで築いてきたすべての準備の基盤まで収拾してこそ、時代の前に現れることができるのです。
 それゆえ長く見れば、四千年の歴史を収拾しなければならず、自分の生涯について見れば、三十年余りの生涯路程において、天が準備した横的な地上の歴史的条件までも蕩減しなければならなかったのです。それでイエス様が蕩減しなければならない期間が、三十年の生涯と三年の公生涯路程であるということを知らなければなりません。この三年の公生涯路程というのは、極めて悲しい路程です。人間が責任を果たせなかったことによって、イエス様が苦難の道を行き、十字架の道を行ったということを私たちは知らなければなりません。
 イエス様が三十三年間、この地上で天を代表して戦った目的はどこにあるかというと、個体完成です。それゆえサタンが、三大試練をしてきたのは何でしょうか。イエス様を一時的な一怨讐として試練をしたのではありません。イエス様の全体目的を前に試練したのです。サタンが試練するに当たって、イエス様の三大試練の内容と同じ、そのような目的の実体になって試練してくる者に対して、「サタンよ、退け」とあらかじめ防いでくれる人がいたのなら、イエス様には試練は必要ないのです。三大試練は必要ないのです。
 試練を通さずに出発と同時に個体完成となり、出発と同時に聖殿理想が完成し、出発と同時に世界の栄光を立てられるようになるのです。そのような基準が出発と同時に一度に起きるはずだったのですが、そのような外的な環境からあらかじめ防いでくれ、サタンと対決して「このサタンめ、お前が知る前に私が知っている。お前が試練するこのような条件は、私にしても駄目だ」と、防いでくれる人たちがいなかったがゆえに、イエス様は苦難の道を行ったのです。

私生涯期間のイエス様

 イエス様は物心がついてからは、食べるのも民族のために食べ、暮らすのも民族のために暮らしました。彼が何よりも苦心したことは、天の父のみ旨のために生きることでした。ところが、天のみ旨のために心を痛め、気をもんだイエス様の三十年余りの生涯を知り、イエス様を引き止めて求めた者がなく、イエス様を引き止めて捜しに出た者がなく、イエス様を引き止めて彼の心中をたたいた者が、その当時、一人もいませんでした。(マタイ 七・7「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」参照―訳注)
 そのような環境であったがゆえに、不憫なイエス様になってしまったのです。天のために民族の代わりに求めなくてはならない立場になり、民族の代わりに捜さなくてはならない立場になり、民族の代わりに門をたたかなくてはならない立場になったのです。イエス様はこのように、上には天に代わって求め、捜し、門をたたかなくてはならない立場に立ち、下には地に代わり、民族に代わって、切に求めなくてはならない立場に立つようになりました。また切なる心情を抱いて捜し、民族の心情をたたき、民族の心を開かなければならない立場に立つようになったのです。
 不信と裏切りの民族を見つめるイエス様は、その民族が寝ているときも、享楽に浸っているときも、楽に眠ることができず、休めず、楽しむことができず、民族をつかんで天と因縁を結んであげるために戦われたのです。このような事実は、イエス様ご自身だけが知っておられました。民族の中の誰一人として、イエス様の心情を慰めてくれる人がいなかったのです。
 環境から懸け離れたイエス様の心情は、み旨の時を待ち焦がれるどころか、何とも言えないいらだちの気持ちを禁じ得なかったでしょう。三十年余りが過ぎ、み旨の実践路程を覚悟して乗り出したイエス様の心情は、悲壮であるならば何とも言えないほど悲壮であり、形容し難い心情であり、人間としては体恤できない耐え難い心情だったのです。このような気持ちでみ旨を実践しようとする公生涯路程を心配したイエス様であることを、私たちは悟らなくてはなりません。

み旨の展開前の生活

 もう一度イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は天の玉座を前に復帰の使命を担い、この地の悲惨な立場で来られました。そのように来たイエス様は、何をすべきだったのでしょうか。彼には万物を復帰すべき責任があり、万民を復帰すべき責任があり、僕(天使)を復帰すべき責任があり、また子女を復帰すべき責任がありました。
 それゆえ彼は、父母の中でも世界的な父母の心をもたなければならず、兄弟の中でも長男の心、兄の中でも兄の心をもたなければならず、世界的な孝子の心をもたなければならず、世界的な忠臣の心をもたなければなりませんでした。また世界的な祭司長の心をもたなければならなかったのです。
 そしてこの地上で神様の前に忠誠を尽くして、善の実績を積んだ先祖たちがいるならば、彼らに後れを取らない忠誠の心までもたなければなりませんでした。それゆえイエス様は、エルサレムで暮らしながら御飯を食べるときも、「神様、私は御飯を食べますので、アブラハムの祭壇に供えられた三つの供え物として受け取ってくださいませ」と祈るような生活をしました。
 堕落によってすべてを失ったために、嘆息の圏内にある万物と人間のすべての嘆息の条件を、内的に蕩減すべき使命が彼にあったからです。それでイエス様は人知れず、そのような歴史的な生活の基盤を築いていかなければなりませんでした。彼は人間の世の中でみ旨を展開する前に、人知れず内的心情の世界において、歴史の背後を中心として生活しなければならなかったのです。
 彼が三十年の間、世の中で笑って、いいかげんに生活したように思うかもしれませんが、彼の生活すべてが祭祀でした。彼が見聞きするすべてが、父が受け取り得るものであったのです。「私が泣くのは、お父様(神様)の苦痛と因縁を結ぼうとするからであり、私が動くのは、この地、この悪なる世をお父様のものとして捧げるためです」という基準で生活したのです。そして、この地のすべての万物と関係を結ぶことを絶対的な目的としたのです。このようなことを知らなければなりません。
 イエス様は寝ても覚めても、自分によって万民の罪が贖罪されることを願う心情をもっていました。眠るときも、万民の罪が贖罪されることを願う心情をもって寝床に就いたのです。人知れぬ静かな夜に目覚めて起き、寝ている万民の代わりに独り祈り、祭祀を捧げる祭司長的な使命を果たすこともありました。「お父様、天宙的な恨の条件を蕩減するための一つの実体として、私を受け取ってください」という隠れた祈祷の生活をしたのです。
 イエス様の生活を見ると、彼は万物の価値を無限として、万物の恨を晴らしてあげるために努力しました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命をもって、息子の中の息子の使命を果たしました。このように三十余年という短い生涯路程でしたが、彼はその生涯の間、復帰の恨全体を一身に懸けて蕩減の条件を立て、ゴルゴタの山頂まで行くことによって、サタンを屈服させたのです。

イエス様の出家

イエス様は母マリヤからも、ザカリヤやエリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対されて、肉親の保護を受けながら使命を成し遂げることを断念せざるを得ませんでした。これが歴史的な秘密です。数多くのキリスト教徒が殉教の血を流す、このような無念で悲惨な歴史が誰のゆえにそうなったのか、誰一人として知る者がいませんでした。これを解いてこそ解放になるのです。地で結ばれたので、地で解いてあげなければならないのです。
 新しく霊的基盤を求め、再び復帰摂理をしようと出発したのがイエス様の出家でした。出家したイエス様は、行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ 八・20)と嘆きました。一族の基盤を失ったイエス様は、それに代わり得る基盤を探し求めて乗り出したのです。それがイエス様の三年路程でした。唖然とします!家庭と一族を捨て、どこに行ってこれを探すのでしょうか。ですから、十字架で亡くなるしか道がないのです。
 家庭と民族の不信に遭い、弟子たちは信仰が揺らいでサタンに侵犯されることによって、イエス様の基台は崩れ、十字架の道を行かざるを得ませんでした。本来イエス様は、メシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福し、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが不信を買い、新婦を迎えられなかったことによって真の父母になれず、その使命を成し遂げられなかったのです。
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