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10/1島原殉教キリシタン追慕礼式記録

嵐の中の奇蹟!10/1島原キリシタン追慕礼式は、後世に語り伝えるべき行事でした。
そこで、これを記録しておくべきと考え、私(宮本さん)なりにまとめてみました。


 ◆神を見た!島原殉教キリシタン追慕礼式
              島原訓読家庭教会・宮本手記


-2015年10月1日(木)、
島原半島の原城と宮本家庭であったサンクチュアリ教会熊本安永教会主催の
「島原殉教キリシタン追慕礼式」は、神が備えた舞台で、生きた神と出会い、
キリシタン霊人らと交流する歓喜の出来事であった。



 「終日荒天」の予報通り、この日は朝から強風を伴う雨。
メイン会場・原城本丸での開催はあきらめていたが、
神は雨と風を鎮める奇蹟をもって我らを予定の場所に導かれた。
結果、いつもは観光客等が多い原城本丸を、
その時ばかりは、サンクチュアリ教会の食口以外誰もいない、
天と直接対峙する空間を演出し、提供してくれた。
その聖なる舞台―原城本丸跡に熊本安永教会から井上教会長夫妻ら8人、
島原から5人、計13人が立ち、輪になって聖歌「園の歌」をうたい、
井上教会長が霊界の3万7千人のキリシタンたちに再臨主の到来を告げ、
再臨摂理・三代王権に侍るよう、氏族メシヤの立場で指示し、宣布された。



 本丸から大手門に帰る道すがら、虎口(こぐち)付近で桜の木に花が咲いているのを見つけ、
異常に興奮したのは緒方さん、坂口さんら熊本安永教会のメンバーたちだった。
私は咄嗟に、島原の乱で城中から幕府軍陣中に射た「天の四郎」の矢文を思い出した。
彼らは「一同揃って死ぬ」日を「桜の花が盛りの頃」と決めていたのだ。
桜の花はサムライ精神の象徴であり、
それを土台にキリストの福音を接ぎ木した日本人キリシタンたちにとっても、同様に殉教美学の象徴とされていた。
霊界のキリシタンたちが桜の花に化身し、食口たちと喜びをもって対面している場面であった、と思われた。


 おびただしい数の犠牲者の遺骨が出土した本丸大手門に向かって歩きながら、
私はふと、背後から急(せ)かれるように島原の乱のことを打ち明けたくなり、
井上教会長に次のような内容を告げた。
すなわち、島原の乱(1637―38)は迫害に対する反乱ではなく、
それは、幕府の禁教令の圧力に屈してキリシタン宗を「転び」、
「アニマ(魂)の救済を失った」自らの罪を、キリストの十字架の道行きと重ねながら償うため、
「悲しみ節(四旬節)」の時にあわせて聖地原城に籠城し、
そこで「悔悛」と「御礼(感謝)」の祈りを捧げ、「ぜじゅん(断食)」し、
ジシピリイナ(鞭)で身を打ち、日々ミサを立て、
こぞって霊界に旅立つ日を「桜の花」が咲くイースター(復活祭)の日と決めて過ごした、
彼らの純粋なキリシタン信仰に依拠するものであった、と―。



 教会長は、感激して受けとめられた。
それは、3万7千人ものキリシタン民衆を
ハライソに導こうと努めた「司祭」役・天草四郎が喜んでいたことではなかったか、
と後になって気付かされた。
 


 その後、宮本家庭まで約40分、
車で移動する道中、雨もなく、到着して空を見上げると真上だけ青空がのぞき、
太陽の光が辺り一面に降り注いでいた。

 

感動と興奮のなかで礼式が始まり、
「原理講論」と「氏族的メシヤと天一国創建」の御言訓読、
「チャムプモニム オンマンセー」を音楽に乗せて繰り返す唱名礼拝、
恩恵交換、霊人と地上人との合同食事和動会へと続いた。
それは、原城と宮本家庭を連結し、天の役事を地上(島原半島)に展開するための
拠点を定めるための、聖なる歴史的儀式であった。
私は、聖霊の役事がすぐに我が家族(妻と娘)に現れたのを確認した。
人間をこれほどにも変えることができるのは、神とキリスト「お父様」以外にあり得ない。
凄いことだ!神のパワーがここにある!
何よりも、安永教会が「御言」を重視し、訓読を介して霊的役事を実体的に展開している事実が驚きであった。



 御言訓読の重要性はキリスト「お父様」が繰り返し語られたことであり、
それなりに理解しているつもりでいたが、役事の実際を見たこと、経験したことはなかった。
その実体を目撃し、体感してみてはじめて、神の恩寵がいかに大きく、
すばらしいものであるか、奇蹟を見せつけられるひとときであった。

熊本安永教会は、氏族メシヤ活動を勝利的に展開する方途を示してくれる、
神が準備した三代王権・サンクチュアリ時代の教会である、と私は思う。


15年10月3日記
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