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わたしは主である。

出エジプト記6章2節

神はモーセに言われた、「わたしは主である。
わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。
わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。
それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」。


☆ 先生は20世紀のモーセである。とお父様は宣言して、み言を始められました。1982年10月14日、天蚕体育館。
二代王様によって、私たちがいかに自覚なき奴隷生活を送るものであるかという事が、理解できるようになりました。天使長の奴隷になってしまったわたしたちを、解放してくださる方が、正にお父様であり三代王権です。お父様ありがとうございます。


天聖経 p 446

 私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこで喜ばなければ何の意味もありません。生きて生活するのが喜びでなければなりません。
 生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在、それ自体以上の新しい何かがあるのです。それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何より貴いものは何でしょうか。愛です。
 愛だけが、これと連結させ得る幸福の要因となるのです。人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。(29-130)

 
皆さんは、何ゆえに生きていますか。食べるために、と答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするためにまたは何の目的もない生を生きているという人もいるでしょう。
 人間は、何のために生きるのでしょうか。愛のために生きるというならどれほど素晴らしい答えかというのです。
 人間は、愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛である神様の懐に帰るようになっているというのが創造本然の生なのです。(祝福家庭と理想天国I-1064)
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