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だれのことか

マルコによる福音書3章31節
3:31さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。 3:33すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。 3:34そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。


☆ この聖句を読むたびに、心が痛みます。マリアが受胎告知をガブリエルから受けた時の感動、またエリサベツと手を取り合って主の恵みに感謝しあった喜び、聖霊に満たされた中でザカリヤとの対面、この感謝と感動を維持できていたら、マリアもエリサベツも、またザカリヤも、イエス様に対してキリストとして侍ることができたでしょうに!
そうしたら、イエス様のメシアとしての歩みが、まったく違うものとなったことでしょう。


天聖経 P 60
 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え、与えて、また分け与えても、限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗み、夜も昼も限りなく愛を取って分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしようか。全知全能の神様なので、「そのようにしろ、してもよい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ 。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えて余りあってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えて、余りあってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。 私がそうなのだ」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」と言われます。
 それで、「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結してはどうでょうか」と言う時「そうしたければしなさい」と言われるのです。(116-240,1982.1.1)


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Author:やすなが0053
サンクチュアリ教会、熊本・安永家庭教会のブログです。
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